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君は

 3階の踊り場で、蜘蛛の巣を見た。夜明け前からの強風で、ビルがしなるのに併せて揺れていた。

 既に捨てられたものなのか、主の姿はなかったけれど。乳白色の片翅だけ、静かに捕らわれていた。

 痙攣する残骸を見て、君のことを思った。
 そうして、君を例えるならば、蝶が良いな、と思った。

あなたにだけは、伝えておきます。

 最上階に辿り着いて、床の上で埃を被っていた黄色いロープを跨いでみても。予想していたみたいな感慨を覚えることはなかった。

 帰宅した時みたいな「何てことなさ」で、錆びついたノブに手を掛けてみて、気づく。
 どうやら、鍵が壊れていたらしい。そうしてそれは、数ヶ月が過ぎた今となっても変化ないらしい。

 障害は風圧だけ。
 僕は容易く外へ出た。風化したコンクリートの砂が靴底と擦れて鳴った。

 すん、と音をたてて冷たい空気を吸う。
 屋上は、雨の匂いがした。弾力のありそうな黒雲が、すぐそばにあるからかも知れなかった。

 あの日の天気は、どうだったっけ。
 暴風に嬲られながら、僕は、君が辿ったかもしれない線を描く。

明日、わたし、空を飛びます。

 誰かに見られると面倒だから、2メートルくらい離れたところから、赤褐色に染まった手摺を眺めた。
 君の足が乗り越えていくのを想像して、平均身長より上だったんだろうな、なんて。

 君はどんな人だったんだろう。
 僕は君の言葉からしか、君を知ることは出来なかった。
 だからこそ、かも知れない。

あなた、信じてくれますか。

 最後の日。君は、この廃ビルの住所を告げてから、無色透明な僕に問うた。
 そのとき僕は、大学の講義室にいた。講義が始まる前のざわめきのなかで、答えを呈示した。

「受け入れるよ。」

 君は、空を飛んだのだろう。
 蜘蛛の巣から辛くも逃れて。片翅を失っていたから、墜落した。
 だけど確かに、君は空を飛んだのだろう。

 遥かに見渡せる、見知らぬこの町に、きっと君はいない。

 君の蹴ったかも知れないコンクリートに、僕は、背を向けた。

 

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